ろまんすのかみさまを

エンタメ系レビュー。日々の細々はTumblrで。ノリノリで記事を書いて、後で読み返して赤面してます。

MOROHAっちゅう詩人

二日続けての投稿とは珍しい。

広島は雨,洗濯物が乾かない。

将来の選択もままならない。

そんな日々です。はい。

 

最近友人とこんな話をしました。

『音楽性アイデンティティが確立されたから新しいバンドに手を出さなくなった』と

たしかに,最近(自分にとって)新しいバンドに出会うことがあんましない。

馴染みのアーティストの馴染みの曲をいつも聞いています。

大学四年間を振り返ると,The ラブ人間から始まり,ビートルズ,セックスピストルズ,ロカビリー,ジャズ,ニューウェーブと時代の流れの中をさまよい,逆走,すっとばし。僕を悩ませた音楽的発達課題たち...

和洋折衷,虫でも,調味料でも食べれるもは何でも食べます的な感覚のアイデンティティが形成されました。

 

そんな中,最近僕の中で話題急上昇中のバンド(ラッパー)がこの方↓

moroha.jp

 

初めて聞いた曲がコレ

www.youtube.com

 

「こういうの大好きだ!」と

いや,PVにでてる女の子が可愛かったとかそれはまた別の話で。

 

こんな淡いメロディーにこんなラップを乗せるのかと。

ましてやこの抑揚ありありに刻むラップはなんなんだと。

そもそもこれはラップなのか!?こんな形はありか!ありだ!と

 

歌詞は屈託のない率直なもので,ストレートな気持ちの表現。

情景や趣というところとはまた違う,人と人のコアな関係と“自分の気持ち”を絞りだすような,そんな雰囲気が心にぐっとくる感じ。

 

「え,なんかうさんくさくない?」

わかるわかる。

わかるんだけど,いいんだよな。

こういうの。

 

久々に鳥肌が立つそんなアーティスト。

 

ちなみにカラオケで歌うと,ぎょっとされます。

www.youtube.com

 

 

洋画『the blue butterfly』を見た

こんばんは。

久しぶりに記事を書きます。

ブログって続かないですね。

 

さてさて、昨日『the blue butterfly』を見ました。邦題が『天国の青い蝶』で,「あっこれ絶対ヒューマン系じゃん、大好き!」と飛びついた本作。 

 

はっきりいって,ストーリー展開が安直すぎな感じもある。「え、そこ!」感の残る作品でした。

 

あらすじは以下↓

movie.walkerplus.com

以下より映画を勝手に解釈。

この映画の見どころは2つ。

 

「なぜい蝶にこだわるの?」

先住民の村で出会った,ピートと同い年ぐらいの少女ヤナがピートにそう問いかけるシーン。

続けて「あなたも私もすべて青い蝶なのよ」と。

ピートもその場では意味が分からない。

青い蝶“ブルーモルフォ”は生命の神秘や奇跡の象徴として扱われているが,ヤナはおそらく“生”そのものに対する答えを投げかけている。と思う。

“生きているということ”それ自体が神秘であり,奇跡である。つまり,人間も青い蝶も同じなんだと。もちろん森の他の生き物も。

ピートは,末期がんで余命が短い。作中彼はそれを受け止めている。

“死”という運命からは逃れられないから怒っても仕様がないと必要以上に達観している。

しかし,そんな彼が,彼が青い蝶にこだわり,捕まえようとした理由は「生きたい」という意志が彼のどこかに眠っていたからではないかと思う。

終盤,ピートはヤナにもらった青い蝶を標本にするために蝶に注射針を刺そうとするが抵抗しない蝶をを見て,「僕と同じだ 怒らないんだね 君は生きられる」と蝶を逃がす。

もうすぐ死ぬ自分と蝶を重ね,蝶の生を奪わないピートの姿勢には,はかなさと底抜けたすがすがしさを感じる。

 

共生というテーマ

 青い蝶を探す最中,昆虫博士のアランが1つの花を採ってピートに見せる。

花の中には甲虫がいて

「甲虫がいないと花は受粉できない,花がないと甲虫は棲み処がない,これが共生なんだ」とピートにいうシーン。

“共生”とはお互いが支え合っているということ。

この話を聞いてピートは母のことを考えたのではないか。

ピートの母は死にゆく息子を想い,世話を焼く。ピートもそんな母を気遣う。

しかし,実はそれは母が,ピートにすがっていて,互いに支え合っているとは,言えないのではないか。

青い蝶を見つける最後のチャンスの前夜,ピートは母にアランと二人で蝶を探しにいきたいと告げる。

「お母さんは目的が違うから」と。

「僕は蝶を捕まえにきた。お母さんは僕のためにきた。だから,アランと二人で行かせてほしい」と。

母を想うからこそのピートのこの発言。しびれた。

 

以上

勝手に感想でした。また来週~

アートアクアリウム 広島

こんにちは。

台風一過で、広島は昨日は涼しくて、逆に寒いぐらいでした。

今日も涼しさは続いています。

 

前回記事でアメリを紹介してから、日が空いてしまいました。

いつものことですな。

イヴ・サンローランはまだ紹介できてませんが、今回は先日行って来た「アートアクアリウム 広島」について書こうと思います。

 

f:id:takkiz-716:20150827102614j:plain

ホームページはこちら→アートアクアリウム | 広島

 

さまざまな金魚を集めた、金魚だけアクアリウムで、館内もなかなか広くて、ゆっくり見て回ることができました。

 

金魚といえば和、特に個人的なイメージてとしては花魁を彷彿とさせます。

これも金魚が観賞魚であることがそう思う原因なのかと思います。

会場の照明や雰囲気も吉原・遊郭を思わせるような作りで、作者をそれを意図しているようでした。

f:id:takkiz-716:20150827104055j:plain

疑問に思ったので少し調べたことを付け加えますが

江戸時代、金魚を愛したのは色町で働く遊女だったようです。

金魚を眺めることは、遊郭に閉じ込められ、自由を奪われた遊女のささいな楽しみ。

ビードロの小鉢の中でしか生きていくことのできない金魚に自らの境遇を重ねていたのかもしれません。

とそんなことを思いました。

 

広島ではなかなかないイベントだし、見ごたえもあるし、写真撮影も可能なので、近隣にお住みの方はこの夏是非いってみるといいかもしれません。

f:id:takkiz-716:20150827104942j:plain

偏見的な目で見る『アメリ』

昨日、柄にもなくフランス映画を借りました。

正直なところ初めてのフランス映画です。

なのでまだ「おフランス」ですね。と皮肉を挟んで感想を書きます。

 

見たのは

フランス映画の代表と言われる『アメリ』

レンタル屋で目にとまった『イヴ・サン=ローラン』

の2本です。寝付けなかったので続けざまに見ました。

 

はじめに『アメリ』について

f:id:takkiz-716:20150814093756j:plain

この映画は友人から教えて貰った映画で、タイトルだけは知っていたのですが、特に借りてまで見ようとも思っていなかったんです。

 

それが、先日たまたま市内の古書堂さんに立ち寄った際、古い映画のパンフレットが詰まった箱を漁っていて、これもたまたま「アメリ」のパンフが目にとまって、ああこれも何かの縁じゃないかと手を出すまでに至りました。

 

何かにつけてこれも縁、あれも縁ってこじつけたがりな癖がでたんですな。

 

 

ざっとあらすじを書くと、神経質な母と元軍医で冷酷な父との間に生まれたアメリが、人との付き合い方を知らないまま、自分の空想の世界に閉じこもったまま育ち、周りの人間との関わりや恋を通して、自分の殻から一歩踏み出してみようとする恋愛映画です。(詳しくはWikiを→アメリ - Wikipedia)

 

 

さて、この映画の個人的な見所は2つあります。

 

1つ目は『シリアスなジョークとユーモア』

 

アメリは結構なイタズラ好きです。

例えば、嫌味な八百屋の店長の家に侵入して、歯磨きチューブを靴のクリームと取り替えたり、目覚ましの時間を早めたり。

 

父親の庭の人形を盗んで、キャビンテンダント?に頼んで世界中を旅をさせ、その写真を父親のもとに送らせたり。などなど。

 

その1つ1つが嬉々としていて、思わずにやけてしまうようなシーンが多くあります。

またイタズラをして喜んでいるアメリがとても可愛い

 

2つ目は『ああ、これぞフランスだ~って思う』ことです。

こういうと馬鹿っぽいですが、というか馬鹿です

 

フランス映画って美術作品が出てくるイメージが強かったんですが、本作でもホレみたことかって具合にルノワール「舟遊びの人々の昼食」が取り上げられてます。

f:id:takkiz-716:20150814104531j:plain

この作品を1年かけて模写する老人がいるのですが、どうしても「絵の中央で水を飲む少女」をうまく書く事ができないとアメリに漏らします。

 

この少女、アメリに似て、内気で気になる異性を眺めているだけというような視線をしています。

 

あとで調べたのですが、この少女のモデルとなったアルジェラという人物は、実際、アメリとは正反対でおしゃべりな女性だったようです。この老人は少女をもってして、アメリを勇気付けようとしてたんですね。

 

他にも、ミヒャエル・ゾーヴァの絵画が登場しているようです。(調べて知った)

 

あとは露骨すぎるまでのザ・パリジャンの日常や音楽といったのも、これぞフランスってなるものばかり。

 

 

自分が面白いと思ったのは上の2つですが、ラストシーンでは、ついに内気なアメリも意中の男性と結ばれるっていうハッピーエンドで、全体的に少女趣味な映画だったと総括します。

 

アメリのストーカー気質なところとか結構好きでした。

 

気になった方のために予告を載せておきます↓


Amelie (アメリ) - Yann Tiersen - YouTube

どうしても読めないモテキ

こんばんは。

夏真っ盛り。世間ではお盆真っ盛りですね。

僕はというと、雨が降っている下宿町に残って、カッフエでこの記事を書いています。

そこそこ元気です。

 

昨日は大きな花火大会を見に行ってきました。

安っぽい言葉でしか表現できませんが、とても綺麗で感動しました。

まさに夜空に咲く大輪の花!!YO!!チェケラ!!

 

三年ぶりぐらいに花火大会にいったのですが、打ち上げ花火を見たあとって、なんであんなおセンチな気分になるんでしょうね。

気持ちがしずんで何もしたくないような、できないような。

かといって高揚しているといえば、そんなような。

綺麗すぎるものって身体に毒な気がしますね。

 

そんなおセンチな気分で昨日はなかなか寝付けず、家にあってまだ読んでなかった久保ミツロウの「モテキ」を読もうってなったんです。

f:id:takkiz-716:20150812194335j:plain

何年か前に、流行りましたよね。当時高校生だった僕の周りでも、話題になったのを覚えています。

 

おセンチな気分で読んだことを後悔しました。

3巻まで読んで、読めなくなりました。

僕、こういう本ほんとだめですね。

辛すぎるというか、切ない。

主人公が空回って、空回って、それでも不純に純粋な感じがどうしても見ていられない。

あくまでフィクションだとしても、そこに見え隠れする男心と女心がどうしても「無理!」ってなりますね。

同じ理由で、河下水希の「いちご100%」も読めないです。何回もチャレンジするのに1、2巻でギブアップ。

物語として楽しむことができないんだなと思います。

 

以上。

更新をサボった上に情けない記事を書きました。

 

霞を食って生きるセイジ

こんばんは。

しばらく更新をサボっていました。

 

タイトルになっている、「霞を食って生きる」

浮世離れして、収入も無しに暮らすことのたとえだそうです。

 

とても綺麗な日本語ですね。

お恥ずかしながら、最近知った言葉です。

僕は知ったことをすぐに使いたがる人なので、ブログのタイトルにしてみました。

 

というのも実は、「霞を食って生きる」っていうのが、今日紹介しようと思う小説にぴったりの言葉なんです。

 

f:id:takkiz-716:20150708034404j:plain

「セイジ」/ 辻内智貴 という本です。

 

就職が決まり、夏休みに自転車で旅行をする主人公が、偶然立ち寄った山間の喫茶店で「セイジ」という人間に出会い、一夏を過ごした、その思い出を回想的に綴った小説です。

 

この「セイジ」という人間がまさに「霞を食って生きる」がぴったりと当てはまる人間だと感じました。

 

セイジは喫茶店の雇われ店長で、一生懸命仕事をしている分けではなく、好きな時に起き、好きな時に出かけ、好きな時に店を開き、好きな時に眠るそんなような人間です。

 

こういってしまえば、なんだか「駄目な人」みたいですが、「セイジ」の人間性には惹かれるところがあります。

 

物語にも述べられているのですが、「セイジ」というのは人間が生きるということ自体を真剣に考えて生きている、人の痛みに敏感な感受性の豊かな人間だといえます。

 

それは「生活のために仕事をしてお金を稼いでいる」俗世の人々、言い換えれば、「生きることの表面上」しか見ていない社会から解脱したような生き方をしているといえます。

 

生きることの本質を追求するような、そんな「セイジ」の生き方を、僕は、とても生き辛そうだと感じました。

 

感受性が豊かというのはいいことのように思えますが、同時に度が過ぎれば、「感じすぎる」ということでもあるように思います。

 

人の「心」に敏感すぎる人にとって、この皆が皆「生き急いでいる」ような人間社会は生き苦しい世の中なのではないでしょうか。

 

作中の店のオーナーの言葉にセイジの人間性を模写したような言葉があります。

 

「陸の魚」

 

人間社会に適応しきれないような、ほっとけば死んでしまうようなそんな存在。「セイジ」を一言でまとめるならこの言葉です。

 

そんな彼の人間性に主人公は惹かれていくのです。

 

 

さて物語終盤。衝撃的な事件が起こります。

 

セイジの店にたまに顔をみせるお爺さんの息子夫婦が殺人事件に巻き込まれてしまうのです。

 

両親を目の前で惨殺され、手首を切り落とされたお爺さんの孫は固く心を閉ざし、感情を失った廃人のような生活を送ります。

 

そんな状況の孫を見て、「この子は何のために生まれてきたのか」というお爺さんの問にセイジがとった行動が彼の人間性を極端にまでも表した行動でした。

 

セイジはおじいさんの孫の前で、自らの腕を切り落としたのです。

 

これがお爺さんの孫の「心」を強引にこじ開けることとなりました。

 

一種の暴露法のような治療になったのではないかと僕は思います。

 

それはセイジの「優しさ」が起こした行動であり、その優しさは「強さ」であって、逆に「弱さ」でもあったのではないでしょうか。

 

おじいさんの孫はその後、快方に向かましたが、その逆だって十分にありえたことですから。

 

しかし、この小説を読み終えたとき、何か気持ちがスッキリとしたような、そんな感覚を覚えました。

 

きっと、僕自身も「セイジ」という人間に魅せられてしまったからでしょう。

 

脆く、壊れやすいが、芯のしっかりとした優しい青年セイジ。

現実にも「セイジ」に似た人を何人か知っています。

 

そんな人と僕は友達になりたいなと思うのです。

 

おしまい。

 #セイジ #辻内智貴 #レビュー #感想

『AMERICAN HISTORY X』から見る差別

おはよう。

じめじめした梅雨の季節をいかがお過ごでしょう。

僕は汗っかきなので、この季節は特に苦手で、タオルは必携。

早く夏になりきってしまえば、まだましなのにと思う近頃。

 

さて、今日は「アメリカン・ヒストリー X」という映画を取り上げて、あーだこーだ言いたい。

 

この映画は今僕が働いているbarのマスターから教えて頂いた名作というか問題作。

f:id:takkiz-716:20150615002016j:plain

概要を説明すると、白人至上主義の黒人差別に焦点を当てた映画で、主人公のデレクとその弟ダニーを軸に回想シーンを挟みながら物語は進んでいく。

 

父親を「黒人」に殺されたことで、「黒人」へ怒りを募らせるデレク。彼は、白人至上主義集団のリーダー的存在で、彼の過激な言動によって、家庭はぐちゃぐちゃだった。

 

物語は、「黒人」の車泥棒を殺害したことで3年間の服役を余儀なくされたデレクが、刑期を終え家族の元に帰ってくるところから始まる。

 

白人至上主義組織や組織に傾倒する弟のダニーは彼をヒーローのように迎え入れるが、デレクは以前と全く違って、落ち着いた穏やかな人間へと変わっていた。

 

それは服役中、役務のパートナーとなった黒人の囚人ラモントとの交流を経て、自分が「黒人」を敵視していたことの無意味さを知ったからである。

 

少しずつ考え方が変わり始めたデレクは案の定、刑務所の白人集団に目をつけられ、リンチされてしまう。

失意のどん底にたたきのめされたデレクのところに、恩師が見舞いにやってくるのだが、彼がデレクに投げかけるセリフが実にいい。

 

「怒りは君を幸せにしたか?家族を幸せにしたか?」

 

一時の怒りに身を任せて行動することが如何に無益なことか、デレクは痛みをもって思い知ったであろう。

 

ラモントの影ながらの助けを借り、その後何事もなく刑期を終えたデレクは白人至上主義集団を抜け、自分のいない間にすっかり白人至上主義に染まりつつあった弟のダニーをも改心させる。

 

新転地に身を移し、家族揃って再出発を誓う。

ここまでは、なかなかの重みのあるハッピーエンド展開なのではないだろうか。

しかし物語はここで終わらない。

 


American History X - Ending - YouTube

映画はクライマックス。

弟のデレクが黒人の少年に銃殺されるこのシーン。

差別の怒りと憎しみの連鎖が痛いほど伝わる。

 

 

KKK、燃える十字架に始まり、アメリカに強く根付いた、白人優位主義的考え方は、デレク1人が改心したところで、変わることはない。

それはまた差別される「黒人」側も同じで、虐げられてきた憎しみを忘れることはない。

 

 

父親を殺された憤り、不安から「黒人」=「悪者」というラベルを貼った瞬間、デレクにとって「黒人」は人間ではなく、カテゴリーとして見られるようになった。

 

「黒人」というカテゴリーに「属する」人間は、「例外なく」悪者であるという考えが固定されてしまった。

 

世代を超えて染み付いた白人優位の考え方が、それに拍車をかけ、父親を失ったやり場のない怒りを抱える青年を差別集団のリーダーへと豹変させた。

 

幸運にも、刑務所での良き出会いによって、デレクは考えを改めるが、時すでに遅し。

自分のやってきた差別行為は振り返り、反省することはできても、塗り替えることはできない。

 

「黒人」の恨みの対象はデレク本人は然り、その家族にまで及んだという次第。

 

怒り、憎しみ、悲しみの連鎖が収まることはない。

 

 

これは、単に本作の黒人差別だけに限ったことではないだろう。

あらゆる差別、戦争、紛争すべてに共通することではないだろうか。

 

人種や国籍で人をカテゴリー化、集団化することが招く連鎖。

 

一人間として他人を理解しようとする志を皆が持つことができればいいのだが、そんなことは今となっては机上の空論であろう。

 

この映画の最後はアメリカ大統領リンカーンの就任演説を引用したダニーのエッセイで締めくくられる。

「私たちは敵ではなく、友だ。敵であるはずがない。激情におぼれて愛情の絆を断ち切るな。仲良き時代の記憶をたぐりよせれば、よき友になれる日は再び巡ってくる」

 

胸にしまって置きたい言葉だ。

以上、この映画の感想。