霞を食って生きるセイジ
こんばんは。
しばらく更新をサボっていました。
タイトルになっている、「霞を食って生きる」
浮世離れして、収入も無しに暮らすことのたとえだそうです。
とても綺麗な日本語ですね。
お恥ずかしながら、最近知った言葉です。
僕は知ったことをすぐに使いたがる人なので、ブログのタイトルにしてみました。
というのも実は、「霞を食って生きる」っていうのが、今日紹介しようと思う小説にぴったりの言葉なんです。
「セイジ」/ 辻内智貴 という本です。
就職が決まり、夏休みに自転車で旅行をする主人公が、偶然立ち寄った山間の喫茶店で「セイジ」という人間に出会い、一夏を過ごした、その思い出を回想的に綴った小説です。
この「セイジ」という人間がまさに「霞を食って生きる」がぴったりと当てはまる人間だと感じました。
セイジは喫茶店の雇われ店長で、一生懸命仕事をしている分けではなく、好きな時に起き、好きな時に出かけ、好きな時に店を開き、好きな時に眠るそんなような人間です。
こういってしまえば、なんだか「駄目な人」みたいですが、「セイジ」の人間性には惹かれるところがあります。
物語にも述べられているのですが、「セイジ」というのは人間が生きるということ自体を真剣に考えて生きている、人の痛みに敏感な感受性の豊かな人間だといえます。
それは「生活のために仕事をしてお金を稼いでいる」俗世の人々、言い換えれば、「生きることの表面上」しか見ていない社会から解脱したような生き方をしているといえます。
生きることの本質を追求するような、そんな「セイジ」の生き方を、僕は、とても生き辛そうだと感じました。
感受性が豊かというのはいいことのように思えますが、同時に度が過ぎれば、「感じすぎる」ということでもあるように思います。
人の「心」に敏感すぎる人にとって、この皆が皆「生き急いでいる」ような人間社会は生き苦しい世の中なのではないでしょうか。
作中の店のオーナーの言葉にセイジの人間性を模写したような言葉があります。
「陸の魚」
人間社会に適応しきれないような、ほっとけば死んでしまうようなそんな存在。「セイジ」を一言でまとめるならこの言葉です。
そんな彼の人間性に主人公は惹かれていくのです。
さて物語終盤。衝撃的な事件が起こります。
セイジの店にたまに顔をみせるお爺さんの息子夫婦が殺人事件に巻き込まれてしまうのです。
両親を目の前で惨殺され、手首を切り落とされたお爺さんの孫は固く心を閉ざし、感情を失った廃人のような生活を送ります。
そんな状況の孫を見て、「この子は何のために生まれてきたのか」というお爺さんの問にセイジがとった行動が彼の人間性を極端にまでも表した行動でした。
セイジはおじいさんの孫の前で、自らの腕を切り落としたのです。
これがお爺さんの孫の「心」を強引にこじ開けることとなりました。
一種の暴露法のような治療になったのではないかと僕は思います。
それはセイジの「優しさ」が起こした行動であり、その優しさは「強さ」であって、逆に「弱さ」でもあったのではないでしょうか。
おじいさんの孫はその後、快方に向かましたが、その逆だって十分にありえたことですから。
しかし、この小説を読み終えたとき、何か気持ちがスッキリとしたような、そんな感覚を覚えました。
きっと、僕自身も「セイジ」という人間に魅せられてしまったからでしょう。
脆く、壊れやすいが、芯のしっかりとした優しい青年セイジ。
現実にも「セイジ」に似た人を何人か知っています。
そんな人と僕は友達になりたいなと思うのです。
おしまい。
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